それを知った時


 
 そこにはさして変わりのない日常が在った。

 コーヒーの匂い、窓の外の風の音、背を向けて何かしら書き物をするマリー。
 さらさらとペンを走らせる音、今日はリズミカルだ。見れば字で埋め尽くされた原稿用紙が
彼女の傍らにどっしりと鎮座している。新作の完成も間近だろう。ぼんやりそんなことを思う。

 そう、それは、変わらない日常の風景だった。
 日向の匂いがする、やわらかな毛布で包まれたような安息がそこには在る。筈なのだ。


 なのに、何故だろう。


 ふと、彼女の服のすそに、ゆるやかに編まれた黒髪に、手を伸ばしたくなったのは。
 手を伸ばして、つかまえて、その驚くべきやわらかさを、腕の中に閉じ込めたくなったのは。

 思った時にはもう手を伸ばしかけていて。

 リュナはその手でマグカップを掴みとり、すんでの所でその衝動を、押し込めた。
 こくりと喉を鳴らし、冷めて酸味の強くなったコーヒーを飲み下す。


 ――こうして、さらさら、ペンの奏でる音楽は侵略から守られる。


 昨日の彼女はあんなにも真白い原稿用紙相手に唸っていて。見守るリュナは内心ハラハラしていたのだが。
 それが今日は、鼻歌でも聞こえて来そうなほどに興に乗っている様子なのだ。邪魔は、したくなかった。


 そう、それに。


 ことりとマグカップを置いて。空になった左手を見やれば、そこには。
 もう着けていることも忘れてしまうほど指になじんだ、シルバーのリング。思わず頬がゆるむ。
 

 いつだったか。


 夕日の中に消えてゆく後ろ姿に、手を伸ばせないことがあった。
 それは幼き日の母との記憶であり、幾夜も夢に見た記憶であり、ほんの少し前の、ほろ苦い記憶。
 遠ざかっていく、彼の人の名を呼ぶことが出来ればと。何度願っただろう、何度悔んだだろう。


 だけど、もう。


 その後ろ姿は、触れても消えはしないのだと。
 いつだって、見えなくたって、あたたかにリュナを満たしてくれるものなのだと。


 そう、知ったから。


 だから今はそう、ほんのささやかな、力かもしれないけれど。
 彼女をつくる、あたたかな世界を守るために。


 ただ静かに、彼女の後ろ姿を見守るのだ。


 もう、それで、大丈夫。
 

 リュナは色違いのマグカップを二つ、そっと持ち上げ台所へと向かった。





リハビリ的な意味も含め一作。
シャボン玉の後日談的な一こま。あれから、リュナ君の変化。
 
伸ばせば届くと。そう、知ったその時。 


 
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